もうすぐ運動会ですね。頑張って練習してきた子どもたちのために、良い天気での開催を祈っています。

 ・・・そんなことを書いておいてナンですが、私は運動会が苦手な子でした。超のつく運動音痴だったからです。(今でも) 幼稚園のころは足が遅いとかボールを取れないとかで笑われたりすることはありませんでしたが、小学校ではスポーツが得意な子がヒーローでしたから、私はずいぶん馬鹿にされました。

 だから運動会でも、たとえばリレーで足の速い子に感動するとともに、遅いながらも頑張っている子にもエールを贈りたくなります。

 何かが得意で、大好きという気持ちは自己肯定感に繋がります。子どもの発達の大事な栄養です。でも逆に、何かが苦手で、嫌いという気持ちはかなりきついものがあります。特にスポーツは優劣がはっきり見えてしまうので、子どもの心や態度に大きな影響があります。

 スポーツが苦手で嫌いでも、他の分野で好きなことを見つけられれば良いと思っています。もっと言えば、どの分野もなかなか得意になれない子でも、優しかったりひらめきがあったり友だちを笑わせたり・・・どの子も良いところがあります。もっともっと言えば、そういう良さが見えにくかろうが、ひとりひとりの子どもは尊重され、愛される存在であるはずです。

 いわゆる障害があってその個性を周囲からなかなか理解されない子も、必ず尊重され愛されるはずです。子どもたちは基本的にそういうお子さんを差別しません。友だちだから。仲間だから。差別は、優劣をつけたがる大人が生み出している大人が作り出している部分が大きいと思っています。私も大人として、子どもたちの心のなかに差別の気持ちが芽生えないような人間であろうと思っています。


(追記)
 ちょっと言葉が足りなかったかな。
 差別はよくありません。当然です。でも、「私には差別する心はありません」「差別する気持ちがある人、信じられません」と言われてしまうとちょっと・・・
 正直に言って私には差別する心があります。たとえばファミレスで馬鹿騒ぎをしたりドリンクバーを1人だけ注文してみんなで飲み回したり、店員さんに高圧的な言動をする人たちを対等に見ることはできません。
 人間にはどうしても差別する心があると心理学者も言っています。そして、その差別心と向き合って、少しでも無くしていこう、少なくとも言動に出すのはやめようとするのが「人間」だと。逆に「私には差別心などありません」と、自分の心と向き合わないほうが危険であると。