相模原の障害者施設での大量殺人事件。もう 1 ヶ月以上前のことですが、私は忘れられ ません。そしてこれからもずっと。

容疑者の動機とかその施設の環境がどうだったのかも色々なニュースやワイドショーで 取り上げられていましたが、私が一番痛切に感じ、考えさせられたこと、それは「人間は 差別する動物である」ということを再確認したことです。
「私は差別なんかしたこともない し、差別意識なんてありません」とおっしゃる方も多いと思いますが、どんな心理学者も 社会学者も「差別意識がない人間はいない」と言います。
でも人間には理性があります。だから「その差別意識はいけないことだ、少なくとも行動や言葉に表現しない」と歯止めをかけるのが人間だと思っています。それは障害児・者に対するだけに限りません。
例えば、家庭環境や地域の環境によって様々な状況に置かれている子どもたちがいます。でも我が子よりも税金などの支援が多い子どもを「それはずるいから排除する、非難する」 という言動をしてしまったら・・・ 少なくともその子どもたちはなにも悪いことをしていないのに。
もしそんなような扱いを受けたら、その子たちはやるせないし寂しいし、ときには差別した人たちを恨むこともあるでしょう。そして、その恨みは我が子に及ぶ可能性だってあります。また、そんな差別意識を持たず、違いをあたり前のこととして受け入れ、仲間として認める優しさと強さを持った子どもたちも、いつしか差別をするのがいけないことだ とは思わなくなってしまうでしょう。
(この容疑者の「何の役にも立たない障害者にお金をかけることをやめれば自分たちの生 活も少し豊かになるし、世の中が平和になる」という思想と同じになってしまいます)
そんな「差別・恨みの連鎖」を断ち切れない社会になってしまうのは、とても悲しく恐ろしいことだと思っています。

もう一回言います。どんな人間でも差別意識を持っています。私にもあります。でもそ れを言動に移すのは本来の人間の姿ではありません。もし誰かが自分よりも劣っていると感じたら、自分ができる形で支援するべきです。指導したり助言したり。でもその人自身ではどうしようもないことが原因なら、その人が困らないように配慮することです。
車椅子の人に「階段を登れないなら電車やバスにのるな」とは言いませんよ ね。エレベーターなどを設置してもらうように働きかけたり、それがないところなら力を合わせて運んだりしますよね。少なくとも、大人のせいや政治・行政のせいで我が子のように教育を受けられない子がいたら、少なくとも彼らを排除したり非難しませんよね。

それが、大人として、人間としての矜持だと思っています。